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大安、仏滅〜六曜のウソと最後の陰陽師〜


現在、日本で使われている太陽暦は明治に入り
太陰暦から変わったものです

簡単にこの二つの違いを述べれば
太陽暦は太陽の周期から導かれたもので
太陰暦は月の周期から導かれたものです



この、太陰暦が使用されていた時代の暦は
日数に干支と、その日ごとに吉凶運(お日柄、吉日)が書かれていた
簡単に言えば、現在のテレビで流れる占いのようなものである

それが太陽暦の暦になると、政府は吉凶などは迷信として廃止
日付と、月、火、水、木、金、土、日の曜日が書かれているだけの物になり
売り上げが全然のびませんでした
そこで大安仏滅などの六曜は禁止されていないことに注目した人が
暦に記載するようになったのです
それが、第二次世界大戦後に本格的に庶民に定着していったのものです

六曜は中国が発祥とするが、起源についてよく分かっていない
もともと太陰暦では、一ヶ月30日(または29日)を指の数である
五つに分割して、六日ずつの小単位をつくり、その日を数えるためのもの
つまり、ひとまわり六日のそれぞれに付けた名称であったのではと
考えられている



たとえば

「三隣亡(さんりんぼう)とは選日の一つである。
棟上げなど建築に関することの凶日とされている。
その字面から、この日に建築事を行うと、三軒隣まで亡ぼすという迷信がある。

三隣亡は、古い暦注解説書には書かれていない。
江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ「屋立てよし」「蔵立てよし」と
注記されていた。
すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。

これがいつの頃からか「屋立てあし」「蔵立てあし」と書かれるようになった。
これは、ある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え
それがそのまま伝わってしまったのではないかと考えられている。

後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで
同音の「三隣亡」に書き改められた。
三隣亡は、少し前までは建築関係者の大凶日とされ、棟上げや土起こしなど
建築に関することは一切忌むべき日とされた。
高い所へ登るとけがをすると書いている暦もある。」


(斉藤均氏のブログ「風水のある日々」より引用
http://blog.livedoor.jp/kin007/archives/2006-03.html)



また、仏滅と言う名前の由来もいい加減なもので

「仏も滅亡する最悪な日」の意だと思われがちだが
もともと、空亡・虚亡を、すべてがむなしいと意訳して物滅となり
これが転じて仏滅となった
したがって、お釈迦様の命日とはまったく関係が無いものである




占いや暦など、中国から伝わってきたものだが
その実、日本独自の発展を遂げ
間違った解釈で現在に伝わってきたものが多い。。。





最後に、最後の陰陽師とされる土御門晴雄についてWikipediaより


土御門 晴雄(つちみかど はるお/はれお/はれたけ)
文政10年6月5日(1827年6月28日) - 明治2年10月6日(1869年11月9日)
は、幕末の公卿で土御門家陰陽道の事実上の最後の当主。
父は土御門晴親、子は土御門晴栄。妹に土御門藤子がいる。家禄は183石。

天保4年(1833年)に従五位上に叙されて
同10年(1839年)に元服して従五位上大膳大夫。
同13年(1842年)に陰陽頭となる。
嘉永2年(1849年)に右兵衛佐を兼ねる。
安政2年(1855年)には正四位下となり
安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加する。
同年12月1日に行われた江戸幕府14代将軍徳川家茂の就任式に際して
侍従高倉永祐とともに勅使として江戸城に派遣されている。
翌年には民部卿に転じて、元治元年(1864年)には従三位となった。
明治元年(1868年)民部卿を辞任。

明治維新によって江戸幕府が崩壊すると
新政府に働きかけて旧幕府の天文方を廃止に追い込んで、編暦・頒暦といった
暦の権限のみならず、測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功する
当時の新政府の中においては、富国強兵や殖産興業に直接つながらない天文学や
暦法に関する関心が極端に低かったのである。
更に洋学者の間で高まりつつあった太陽暦導入に反対して
天保暦を改暦して太陰太陽暦の継続を図るように提案したものの
今度は逆に新政府の関心の低さが災いして、改暦は見送られる事になった。
晴雄はなおも改暦を要求したが、病に倒れ43歳の若さで病死した。
なお、墓は京都梅小路梅林寺にある。

後を継いだ嫡男・和丸(後の晴栄)はまだ幼く、更に新政府内部でも陸海軍の
円滑な運営に欠かせない天文や測量が古い陰陽寮に縛られる事への危惧や
非科学的な陰陽道が日本の近代科学導入の障害になる事が指摘されるようになり
新政府は晴雄の死の翌年の明治3年(1870年)陰陽寮の解体を断行するのである。


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