陰陽道考査・番外〜僕と陰陽道との出会い〜


幽霊・妖怪、UFO、ユーマ、オーパーツ(謎の古代文明)・・・

小学生の時から不思議なものに興味があり
いろいろな本を読み始める

そんな時、映画「帝都物語」で陰陽師を知る

それからしばらくしてから
マンガ「風水斎シリーズ(服部 あゆみ著)」とであう
その本の巻末に参考文献が載っていて
その参考文献を基に陰陽道関係の本を読み始める

中学に入ってから
「日本人なら、日本の歴史、民俗・習慣なども多少は知っておくべきだ」と
そちら方面の本も読み始める
宗教関係では特に学研のブックスエソテリカ・シリーズを買いあさる

これらの研究をはじめると
陰陽道と、その原点である陰陽・五行思想が
日本の民俗、文化、宗教、歴史、暦など様々な部分にまで浸透し
悠久の時を経て現代まで続いていることを知り
日本人として自分の心の宗教を陰陽道(現「天社土御門神道」)にしようと
思い始めるのだが・・・



陰陽師の映画の流行とともに
怪しげな自称「陰陽師」が巷に出始め
京都の晴明神社まで商売気を出し始め観光地化してしまった





晴明神社を初めて訪れた頃は、僕はまだ高校生だった
その場所はタクシーの運転手でさえ知らない
普通の地元の小さな氏神神社でしかなかったのだが
今では門限までできて、神社の前にはタクシーが並び
周囲には流行に便乗して土産物屋までできる始末

神聖さが欠けて、なんだか冷ややかな気分になる・・・


でも、陰陽師ブームというのは時代を経て何度も繰り返されている
今の世の中、有名な神社(観光地)以外は、初詣くらいしか人は集まらないし
小さな神社は経営(維持)に苦しみ
敷地内で高層マンションを建てようとしている場所もあるくらいだから
逆に神社を存続するためには観光地化してよかったのかもしれない・・・

陰陽道は日本人の文化の礎として息づき
流行と言う名の下に時代の中で思い出され続いていくのかもしれない


| 陰陽道考察 | 14:02 | - | trackbacks(0) | pookmark |
陰陽道の源流

以前に「道教や仏教が取り入れられたのは・・・」と言う発言がありましたが
正確な発言ではないので、今回は陰陽道と他宗教についてご説明いたしましょう



まず、陰陽道の源流には道教があります
もっと正確に言うならば、陰陽説と五行説にあります


中国思想における陰陽五行説は最初は別々に発展してきました

陰陽説がいつ頃誕生したのかは明確に立証する文献はありませんが
「左伝」に陰と陽の二文字が記載されており
おそらく紀元前六世紀には陰陽の概念があったと思われます

五行説の起源は五経の中から知ることができます
五経とは「易経」「書経」「礼記」「春秋」の五つを纏めて「五経」と言う
五経は儒学の経典であり、その中の「書経」は中国最古の経典であります
書経は別名「尚書」と呼ばれており、五行が最初に登場するのは
「書経」にあります


宗の時代に「太極図」と「太極図説」
及び「太極図解」による説明書きが現れてきました

この陰陽五行説は中国で、思想、習慣など
あらゆる分野に影響を与えていくことになります

その中に宗教、つまり道教が含まれるわけですが
道教の源流は「太平道」と「五斗米道」と言う宗教団体があります

太平道の教義は
天と地を神として仰ぎ、陰と陽を崇め、五行にしたがって五行の吉凶を見定め
これを解釈するという教えであり、陰陽五行説に則った教えがありました

この「太平道」あるいは「五斗米道」が後に道教として現代にまで続くのです




話を日本に戻しましょう

陰陽五行思想、あるいは道教思想が日本に伝来したのが継体天皇までの時代と
第二期は継体朝から奈良時代末期までの約300年間と言われています
この時代には仏教や呪禁道、宿曜道などが伝来してきました



それまで「大王」と呼ばれていたのが
聖徳太子の時代頃から「天皇」と呼ばれるようになります
これは、初期道教の至高神である「天皇大帝」にもとずくと言う説があります
聖徳太子は603年に「冠位十二階」を制定し
翌年には自らの理想を「十七条憲法」にまとめます
冠位十二階では、五行にもとずく「仁・義・礼・智・信」の五つの徳目と
それらを統括する「徳」のそれぞれ大小12位階を定めるわけです
いづれにせよ、日本の仏教の開祖である聖徳太子が
儒教や道教の影響を受けていたことは確かであります
(余談ですが、「聖徳太子は居なかった」と言う説もあります・・・)



また、中国で体系化された陰陽五行説や道教、呪禁道は
日本古来から続く山岳信仰と密教が結合され修験道となるわけです
この修験道の開祖は役小角で続日本紀では賀茂役君と記載されており
後に陰陽道の大家である賀茂氏の血筋であったといわれています



中国から伝来した呪禁道は呪禁と証する呪術によって
自然・超自然的存在による害から身を守るための知識や技術であり
百済より伝わった呪禁が日本で発展形成されたものです
(呪禁は道教の呪いを含む医術の一種になります)

呪禁博士や呪禁師は典薬寮、すなわち医学を扱う部署に属する存在であり
病気治療呪術と呪殺などを行う存在でした
陰陽師が力を付けはじめると呪禁道は吸収合併されるようになり
これが後に我々がよく小説などの世界で見る陰陽師の姿となるわけです

奈良時代に設立された陰陽寮の仕事は自然観測や暦の作成
時刻の測定といった観測と理論による技術職であり
呪術職的な色合いはとても薄かったのがですが
平安初期には呪禁道と合併されることで呪術的なイメージが強まるわけです


続いて、宿曜道とは空海や円仁、円珍と言った入唐僧が持ち帰った
宿曜経を駆使した術で、符天暦によって暦算、星占い、祈祷を行うもので
「密教占星術」と言われるものであります
もともとは個人の運命を読む為の占術ではなく
修法や祈祷を行うにふさわしい日時を選んだりするものでしたが
後に陰陽道にも吸収されていくようになります





聖徳太子は日本で仏教諸宗派共通の祖師として崇められていますが
この聖徳太子にも陰陽五行思想、儒教、道教の思想を強く影響されていました
日本の仏教諸宗派は、奈良仏教系の法相宗、律宗、華厳宗に加え
平安仏教である天台宗と真言宗
その後の浄土教系の諸宗派(浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗)
全集系諸宗派(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)と日蓮宗の6系統13宗に大別される
天台宗、華厳宗、浄土宗、禅宗などの教義は中国の宗派仏教であるが
しかし中国の宗派仏教と日本の宗派仏教とは質を異にしている
仏教が伝来すると日本古来の神道と対立することになるが
しかし、元々日本では「八百万の神々」と言われたためか
いつの間にか共存するようになります
陰陽五行思想を取り入れた仏教、神道は陰陽道を仲介として
お互いに影響卯を与えながら(時には吸収され)発展していくことになります



日本古来の神道も陰陽五行や儒教、陰陽道から影響を受けています
神道は自然神を尊い、崇拝するための信仰でした
神道と言う言葉が使われるようになるのは「日本書紀」の用命天皇からで
仏教が伝来した後に区別するため古来の信仰を神道と呼ぶようになりました
信仰でしかなかった神道は、7世紀半ばからの律令制度のもとで
国家的制度となると神祇制度も取り入れられるようになります
神道の思想は陰陽五行思想と似通った所もあったために
伝来すると安易に吸収されると発展していくこととなります
神道は陰陽道の思想を取り入れることにより祓いや禊
あるいは、年中行事、民間習俗、暦、しいては芸能の世界にまで
深く関与していくことになります



道教の神仙術(養生術)や仙薬(漢方に通じる)は
自然神を崇め崇拝し不老不死を手に入れるという思想であり
日本では役小角が開祖となり修験道として残ります




陰陽道は天武天皇の時代に陰陽寮を設置し
官僚機構に組み込まれ国家直属の占い師となり
国家管理の下に置かれることになりますが

明治に入ると陰陽道は廃止され、その思想は神道や民間習俗に溶け込み
我々の生活に深く根付き続いてきたのであります


| 陰陽道考察 | 22:25 | - | trackbacks(0) | pookmark |
大安、仏滅〜六曜のウソと最後の陰陽師〜


現在、日本で使われている太陽暦は明治に入り
太陰暦から変わったものです

簡単にこの二つの違いを述べれば
太陽暦は太陽の周期から導かれたもので
太陰暦は月の周期から導かれたものです



この、太陰暦が使用されていた時代の暦は
日数に干支と、その日ごとに吉凶運(お日柄、吉日)が書かれていた
簡単に言えば、現在のテレビで流れる占いのようなものである

それが太陽暦の暦になると、政府は吉凶などは迷信として廃止
日付と、月、火、水、木、金、土、日の曜日が書かれているだけの物になり
売り上げが全然のびませんでした
そこで大安仏滅などの六曜は禁止されていないことに注目した人が
暦に記載するようになったのです
それが、第二次世界大戦後に本格的に庶民に定着していったのものです

六曜は中国が発祥とするが、起源についてよく分かっていない
もともと太陰暦では、一ヶ月30日(または29日)を指の数である
五つに分割して、六日ずつの小単位をつくり、その日を数えるためのもの
つまり、ひとまわり六日のそれぞれに付けた名称であったのではと
考えられている



たとえば

「三隣亡(さんりんぼう)とは選日の一つである。
棟上げなど建築に関することの凶日とされている。
その字面から、この日に建築事を行うと、三軒隣まで亡ぼすという迷信がある。

三隣亡は、古い暦注解説書には書かれていない。
江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ「屋立てよし」「蔵立てよし」と
注記されていた。
すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。

これがいつの頃からか「屋立てあし」「蔵立てあし」と書かれるようになった。
これは、ある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え
それがそのまま伝わってしまったのではないかと考えられている。

後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで
同音の「三隣亡」に書き改められた。
三隣亡は、少し前までは建築関係者の大凶日とされ、棟上げや土起こしなど
建築に関することは一切忌むべき日とされた。
高い所へ登るとけがをすると書いている暦もある。」


(斉藤均氏のブログ「風水のある日々」より引用
http://blog.livedoor.jp/kin007/archives/2006-03.html)



また、仏滅と言う名前の由来もいい加減なもので

「仏も滅亡する最悪な日」の意だと思われがちだが
もともと、空亡・虚亡を、すべてがむなしいと意訳して物滅となり
これが転じて仏滅となった
したがって、お釈迦様の命日とはまったく関係が無いものである




占いや暦など、中国から伝わってきたものだが
その実、日本独自の発展を遂げ
間違った解釈で現在に伝わってきたものが多い。。。





最後に、最後の陰陽師とされる土御門晴雄についてWikipediaより


土御門 晴雄(つちみかど はるお/はれお/はれたけ)
文政10年6月5日(1827年6月28日) - 明治2年10月6日(1869年11月9日)
は、幕末の公卿で土御門家陰陽道の事実上の最後の当主。
父は土御門晴親、子は土御門晴栄。妹に土御門藤子がいる。家禄は183石。

天保4年(1833年)に従五位上に叙されて
同10年(1839年)に元服して従五位上大膳大夫。
同13年(1842年)に陰陽頭となる。
嘉永2年(1849年)に右兵衛佐を兼ねる。
安政2年(1855年)には正四位下となり
安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加する。
同年12月1日に行われた江戸幕府14代将軍徳川家茂の就任式に際して
侍従高倉永祐とともに勅使として江戸城に派遣されている。
翌年には民部卿に転じて、元治元年(1864年)には従三位となった。
明治元年(1868年)民部卿を辞任。

明治維新によって江戸幕府が崩壊すると
新政府に働きかけて旧幕府の天文方を廃止に追い込んで、編暦・頒暦といった
暦の権限のみならず、測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功する
当時の新政府の中においては、富国強兵や殖産興業に直接つながらない天文学や
暦法に関する関心が極端に低かったのである。
更に洋学者の間で高まりつつあった太陽暦導入に反対して
天保暦を改暦して太陰太陽暦の継続を図るように提案したものの
今度は逆に新政府の関心の低さが災いして、改暦は見送られる事になった。
晴雄はなおも改暦を要求したが、病に倒れ43歳の若さで病死した。
なお、墓は京都梅小路梅林寺にある。

後を継いだ嫡男・和丸(後の晴栄)はまだ幼く、更に新政府内部でも陸海軍の
円滑な運営に欠かせない天文や測量が古い陰陽寮に縛られる事への危惧や
非科学的な陰陽道が日本の近代科学導入の障害になる事が指摘されるようになり
新政府は晴雄の死の翌年の明治3年(1870年)陰陽寮の解体を断行するのである。


| 陰陽道考察 | 22:32 | - | trackbacks(0) | pookmark |
陰陽道史と現在に陰陽師を名乗る者たちは?


陰陽師の仕事は

天災などの占いや風水
陰陽五行説に基づいた暦の作成
天体観測や気象観測
水時計を用いた時刻の観測

陰陽五行に則った穢れ祓い
(のちの民間行事としてのこる)

が主な仕事になります


道教や仏教が取り入れられたのは
役小角の子孫が加茂家にあたることと
当時の時代背景に最先端の陰陽道が
いろいろな宗教の技術を取り入れることにより
時代のニーズや支配者に取り入って発展してきたものといえる
(陰陽五行説そのものが密教や道教などに取り入れられていた)

また、陰陽道が国の組織に組み込まれる事により
科学が発展していなかった当時に謎の疫病や天変地異など
人々の不安な心を占いや天体観測で権力者に忠告することにより
(神道はその性質状、穢れなどに関わらず陰陽道や仏教系にまかされていた)
物忌み祓い、方違いをしながら脈々と続いてきたと言える

陰陽師が行なっていた祓いなどはすべて陰陽五行に則ったものであり
(中国から伝来した戦術や道教系の霊符もあるが)
西洋魔術のような呪術的なものではない
小説(陰陽道関係の)に登場する呪詛は実在しないと言ってよい
呪詛は当時の科学で理解できなかった疫病や天災奇怪な出来事が
原因だと思われる、あとは数世紀の間に作られたフィクションである

陰陽道はそののち豊臣秀吉の時代より衰退し始め
グレゴリオ暦の導入により陰陽道禁止令とともに陰陽道は廃止され
それと同時に陰陽師も居なくなったと言えるでしょう

のちに陰陽道は天社土御門神道として復活しました
先祖代々陰陽道に関わってきた者たちの末裔が
土御門神道が与える「許状」と吉田神道が出す「神道裁許状」を持って
神道への道へと進んでいきます


この土御門神道からの「許状」と「神道裁許状」を所持していない
自称「陰陽師」がどのような理由で「陰陽師」と名乗り
どのような「仕事」をしているのか気になるところですが。。。

僕からの見解を言わせていただければ、現代に陰陽師を名乗る方は
たんなる「占い師」か「拝みや」でしかないように思われます

たしかに平安時代から隠れ陰陽師や法師陰陽師が出現しはじめています

江戸時代、綱吉の朱印状を持って土御門家が陰陽道を統括していましたが
しかし、自称陰陽師と称し占いを行なうものが多く居ました
(当時、陰陽師の仕事は占いに絞り込まれていた)
江戸時代に幕府の天文方が新暦を完成させようとしていたため
土御門家が(宗教としても)その存続をかけ
(当時すでに暦の正確性は土御門家は落ちていた)
全国津々浦々へと占いを行なう神職、僧侶、修験者、有料で占うものへの免許を交付するが
その時、言い争いになり土御門家が起訴を申し立てるも
「無償の場合は許可が無くてもよい」などの理由により免れた者も多く居ました

そう考えると民間陰陽師として代々受け継がれてきた方も居るかもしれません

しかし、だからと言って何でもかんでも
誰でも陰陽師と言っている方を信じるわけにはいかず
また、認めていれば何が真実かを見落とすことになります
(と言うより、個人的な思想から陰陽師は居なくなったとしたい)

一時期、陰陽師の末裔と言われていた「いざなぎ流」の方々も
「自分らは陰陽師ではなく神道である」と言っているのですから。。。


あくまでも僕の考えは
「民間陰陽師として受け継がれてきた方も居るかもしれないが
真実を見極める為に、あえて陰陽師は居ない(もし名乗る方が居たとしても
それは陰陽師ではなく「占い師」や「拝みや(霊媒師)」の枠であり
陰陽師は歴史背景から居なくなった)とし
陰陽道その伝統は日本の伝統に溶け込んだものとする」




ここで、僕が20年程前に陰陽道に興味を持ち始めた時に手に取った本を紹介


一時期、陰陽道ブームや安倍晴明ブームに乗って
いろいろな本が巷に溢れかえった時期がありますが
ほとんどの本が村山氏の本から引用されたものです

「日本陰陽道史総説」「日本陰陽道史話」「陰陽道叢書」[陰陽道基礎史料集成」
この4冊は村山氏の最高にして現代の陰陽道研究書の代表作といえます
書店に置いてある怪しげな本を買うよりこちらをオススメ

※「陰陽道叢書」[陰陽道基礎史料集成」 の二冊は絶版となっていて
 とても手に入りにくくなっています
| 陰陽道考察 | 13:04 | comments(0) | - | pookmark |

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